未知の世界に無知な俺が行く

f:id:iamjin:20160212184806j:image最近会った人に「好きな場所に連れてってよ」とお願いをよくする。私のこの人生を振り返ると、型にはまった行動しかしていない。この街に来たらこの店とあの店へ。とか、お昼ご飯食べに来たらこの店のB定食だけを注文する。とか。冒険もせずに生きてることを後悔することも多々あった。かと言って踏み出すキッカケもない。だから私はこういうお願いを人にする。そして誘われた場所にたどり着けばその人がどういう人間かもっと分かるし、私は子供のように知らない世界を面白がる。そして、この世の中は自分の知らない世界だらけで、とても面白いということを認識する。

 

"可動域を広げる"これはいつからか立てた自身の目標だ。精神病理に於いても病を治す為の最善な方法は可動域を広げるということなように可動域を広げるということは人が善く生きる為のプロセスで本当の意味で自由になる為の術である。

今は分からない楽しさを思う存分楽しんでいるがそれは今だけでいい、私が30歳、40歳になった時には知らない世界はそんなにいらない。それは未知の世界を拒絶することではなく、知らないことの多くを楽しむのではなく知ってることの多さを受け止めそれを活かし楽しみたいってこと。可動域を広げることによって視野は広がり、道端に落ちているとても小さな綺麗な石ころのようなものも見つけられる、これからどうなるかは勿論神のみぞ知るだけれども可動域を広げることによりよりよく生きられることは明らかだ。

シャイニーゲイになりたくて

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急遽人と酒を飲む予定が出来て街へでた。

 

「あんた、今日はゲイっぽくないわね」と久しぶりにあった年上の友人は開口一番に言った。最後に会った時は夏で、あの時ピッチピチのTシャツに短パン、そしてニューエラのキャップというどっからどうみてもいかにも典型的な若いゲイの装いでいたからか「あんた私より遥かにゲイらしいわ」と帰り道のC8出口付近で言われたのを覚えてる。ハッピーアワー開催中のCoCoLo cafeで「我々シャイニーゲイだからマルゲリータでも食べて酒飲みましょう」とバカげたノリで我々はピザを注文しビールで乾杯をし食事会をスタートさせた。

 

 

シャイニーゲイとは昨年のTRPという毎年GW頃代々木公園で行われるLGBTのプライドイベントあたりから突如SNSでゲイの間で使われるようになった言葉だ。Instagramで仲間との集合写真をあげたり、週末にホームパーティを開き仲間と楽しい時を過ごしたり、頻繁にジムに通って身体を鍛えたり美容や健康を大いに気にしたりするゲイを意味する、つまりはリア充って奴だ。今現在置かれている現状などを冷静に考えなくても私はシャイニーゲイには程遠い、シャイニーゲイの重要項目の一つである身体を鍛えてるということには当てはまるけれど。シャイニーゲイには当て嵌らない我々は、その言葉を借りるならば「拗らせ仲間」で偶に会っては近況報告や恋愛話などの会話を繰り広げる、勿論今回もだ。

 

 

「あんた、会わない間に大人になったしとても落ち着いたね、昔では考えられないくらい」と私の近況報告を終えると友人は深く頷きながら私に言った。出会った頃私は確か18歳の浪人生で、友人は22歳の大学生で、あれから4年の月日が流れた。「ありがとうございます。でもよく考えてみるとこの世で変わらないものなんてないんですよ、このお皿だってグラスだってこれらを形成する物質はおそらく何百年に一度の周期で回ってるんですから。だから人間も当然少しずつ変わりますよ」と目の前の食器を指差し私は答えた。出会った頃の18歳の私ならきっとそんなことは言わなかった、ずっと人間は変われないと思い生きてきたけれど人間はその気になれば生まれ直せると信じている今だからこそ噓偽りもなく本心からそう言えたのかもしれない。

 

食事が終わりお店を出た私たちはルミエールであーでもないこーでもないとDVDのパッケージの品定めをすることを経て2軒目として私がいつもお世話になっている大好きなお店に流れ着いた。そこで、意を決して複雑怪奇なここ最近の自分自身についての大きな悩みを打ち明けると「そうなのねぇ。面白いしそれでもいいんじゃない?」という言葉を受け取った。すると不思議なことに心がふっと軽くなった。他者の些細な言葉が気がつけば最後までたわいもないお喋りでお酒を美味しく楽しく飲むという時間に繋がっていた。

シャイニーゲイの定義なんて曖昧できっと誰も真意は分からないだろう。友人と美味い酒を飲んで明日も頑張ろうと思えることもシャイニーなんじゃないかなぁとぼんやりと思いながら仲通りで大きく手を振った後帰路を急いだ。バルス

最後の行く末

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「愛ってなんだと思う?」友人が真面目な顔をして私の目を真っすぐに見つめながら尋ねてきた。食べていたサンドウィッチを珈琲で流し込み「なんで私の聞くの?」と素朴な疑問をぶつける

「私が知ってるだけでも多くの人と付き合ってきたよね?だから何か分かるかなって」
埃の香りが店内に漂う古き良き喫茶店で3限をサボってる時に突然そんなことを聞かれるとは思わなかった。


「それは破綻の連続だからだよ。自分が冷めてしまったり自分の至らなさが露呈され次第に愛想を尽かされ気がついたら、さようなら、とかね。本当は誰か1人と上手くやっていきたいと思ってるんだけれど、どうも上手く行かないんだよね」と友人に正直に打ち明けた。

「いつも同じ事の繰り返しだった」と脳内整理をしながら友人に話す過程で気がついた。
かつて私は自分の足りない所を人で埋めようとし続けた、半熟なゆで卵ではなく生卵のようなことを幾度も経験した。満たされたくてしていた行いは決して自分を満たしてくれる事はなく、虚無感をずっと抱え生かされていた。そして関係が終わった相手を思い出したくなくて自分の中でなかった事にしたことも沢山あった、ちゃんと過去の交際相手だとカウントする人も勿論いた。

しかしそのどちらにも当てはまらない特別な人がいた。


とても美しい人だった、容姿だけではなくあらゆる物で溢れる世界を享受する生き方が美しかった。その美しい人は私に色んなことを教えてくれた、クリムトの絵、演劇、写真、哲学、詩、旅、登山、音楽、映画、英語、神様のこと、自分がどういう人生を歩んできたか。美しい人は写真を撮るのが好きでベッドで寝ている私を撮るのが好きだった、シャッターを切る音で目を覚ますと「何もしてないよ」といった具合に自慢の一眼レフを後ろに隠してすっとぼける表情が私は、とても好きだった。美しい人と私は私の2倍も年上のアパートの屋上で煙草を吸いながら日向ぼっこをするのも夜空を眺めながら缶ビールを2人で飲むのも好きだった。TSUTAYAでDVDを借りて肩を並べて映画を見ること、寝る前に好きな絵本を読み聞かせてくれたこと、それぞれ同じ本を読んで読み終わった後に討論をすること、一人で旅をした国の話を聞くことも私は好きだった、朝に淹れてくれる珈琲を飲む時間も好きだった。「付き合い初めの時から思ってるんだけど君とこういう穏やかな暮らしができたら幸せだなって。君は美しい文章を書くんだから小説家にでもなりなよ、そしたらもし君が売れなくてももっとバリバリ働いて家建てて小説家の妻として支えるよ、先生」とある日酔っぱらって言ってきた美しい人に「君が妻だったらきっと毎日楽しいだろうな」と答えたこともあった、毎日が楽しかった。

 

 


「これから沢山の素敵な人たちに出会えますように。これから困難な事があっても立ち向かう勇気がありますように。これからも真っすぐに美しく輝きながらあなたが生きていけますように」と涙を流しながら願いを呟いた後美しい人は美しい人がとても大切にしていたチベットの神様のネックレスにキスをし私につけてくれた。私は宝物のTegan and SaraのDVDと一人旅に連れて行った中原中也の詩集をあげた。20歳の冬のことで、最後の日のことだった。


「愛って、与える物だとも言えるしもう会えなくなったとしても相手の幸せを最後まで祈る事だとも言えるし正直よく分からない、それは色んな形があるから。けど我々にとってなくてはならないものなのは自明の事だよね」とサンドイッチを食べ終えた私は友人に答えると、

「なるほどね…で、今は恋人いるの?」と友人は食い入るように聞いてきた。

「いないし、今はいい。でも自分が大人になれたと思える日が来たら人生を誰かと共有してみたいなと思えるようになったかな。私の性格上難しいかもしれないけれど」と笑って答えた。

昨日注文したTegan and SaraのDVDは何時頃配達されるんだろうと思いながら。

ジオラマみたい

f:id:iamjin:20160212184724j:image幼少期から母親が「懐かしい」といいながら偶に連れて行ってくれた特別な場所があった、それが飯田橋だった。先日授業終わりに今日は雲がひとつないくらいに晴れているから真っ直ぐ帰りたくなくてふらっと飯田橋へ足を運んだ、ふと足を運びたくなったのは幼少期からの思い出が沢山あるからかそれとも大学から近いからか。そんな飯田橋の地に降り立つと必ず足を運ぶ場所がある、「あなたが生まれる直前まで働いていた会社の昼休み、よくここでお昼ご飯を食べたんだよね」と、母親がよく言っていた場所だ。母親に連れられてしか行ったことがない紀の善。神楽坂の入り口にある日本で唯一のペコちゃん焼きが売っている不二家のお隣に鎮座する古き良き甘味処へ22年後の冬に1人で足を踏み入れたのだった。

 

母親とよく行った土日はいつも多くの人がいて賑わっていたが、その日は平日「1名様ですか?お二階含めお好きな席へどうぞ」と入り口付近で店員さんに声をかけて戴いてから店内に目を配ると昼時だというのに上品なご年配の方々がチラホラといらっしゃるだけだった。いつも2階だったからと躊躇することなく2階へ続く階段を登ると2階席も同様であった。最初テーブル席に座ろうかと思ったが2階の奥にある御座敷をチラッと覗くと誰もいなかったので御座敷に腰を下ろした、靴をわざわざ脱がなきゃいけないというデメリットがあるが御座敷の大きな窓から神楽坂の景色を堪能できるという大きなメリットがあるからだ。御座敷のお座布団に座るといつもと同じように、とり釜飯と杏あんみつを注文。初めて紀の善へ来た時から食べるものは大体決まっている、夏は夏限定のかき氷を戴くのだけれど。「釜飯はお出しするまで2,30分程戴きますがよろしいでしょうか?」という店員さんのいつもの言葉に「構いません。」と応えた後、大きな窓に映し出される神楽坂の景色を眺め、暖かい緑茶と、一緒にいつも出されるブタの形をしたお煎餅を手で割って少しずつ口に入れた。

 

 

日頃の時間に追われた忙しい生活を忘れさせる穏やかな空間でぼんやりと外の世界を眺めながら日々の混沌を考えていた。この世にモモのような聖愚者がいないことは、分かっている、時間泥棒がいないことも。では何故人は時間泥棒がいないのに時間がないと焦ったり時間に縛られて生きているのだろうか。「時間泥棒は自分自身だ」そんなことをぼんやり思った後に「紀の善であんみつ食べられればそれ以上の贅沢は望まない」と思いながら、鞄から本を取り出し、私は読書を始めた。

怒るのやめました

1ヶ月前から怒ることをやめた。物に当たったり人にキツい言葉を浴びせることはしないけれど以前は日々何かしらにイライラして生きていたように思える。作業が遅くてイライラ、天気が悪くてイライラ、前に言ったことをなんであなたはまた聞くの?とイライラ。決して行動には出さないけれど心中でイライラし続け気がつかないうちにストレスが増え身体を壊したり逃げ場のない思いが募り自暴自棄になったりした。

 

 

「私のお父さん全く怒らない人なんですけど、昔はとてもイライラしやすい人だったみたいで、ある日、人に『そんなに人に期待するの止めなよ、期待してるから期待が裏切られて怒るんだよ』と言われて『そうか…』って思えたら全く怒らなくなったみたいで今に至るみたいです」ある日そんな言葉をある人が言っていた。

自分もハッとした。

人の期待に応えようと「そんなことしたらしんどいなぁ」と思いつつも過剰な自己犠牲を行い必死に人の思いに応え自分の居場所を確立することに奮闘してる私は、人の期待に応える一方で人に勝手に期待してたのかもしれないなとその時気がついた、そしてそれを止めてみようと。

決してそれは人を見下すことではない、「あなたはこういう人だからあなたはこうするだよね」という先入観を捨てること、ただそれだけ。そんなことを1ヶ月続けたら私は全くイライラしなくなり毎日を穏やかな気持ちで送れるようになった、ただそれだけのことで生きやすくなるなんてお得な人生だ。

 

 

「近所の空き地に沢山のアロエが逞しく自生してるんです。ある日ふと『地球が、いや人類が滅亡したら…』って考えてアロエを見つめたら、そうなってもきっとこのアロエは逞しく自生続けるんだろうなって思ったんです、アロエのように逞しくなりたいですね、アロエみたいな人間になりたいです」そのある人が別の日私にこう話しかけてきた、私は「アロエみたいな人間か、それって素敵なことだね」とまた深く頷き姿勢を正し

そのあとの言葉に声を傾けた。

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「きみ」と別れるために、そしていつか「きみ」と遠く、どこかで再会するために、「ぼく」は旅をする

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あの感情。

 

単調な毎日を積み重ね生きる今でも五感をフル作動させて目の前の世界を味わっていたあの日のあの瞬間を何気ない瞬間にふと思い出す。17歳の春、大きなリュックを背負って一人タイはバンコクへ向かった。子どもの頃大人に将来の夢を聞かれ「旅人と詩人」と大真面目な顔をして答えた私はあの日バックパッカーとなった。もしかしたらバンコクの地で死ぬかもしれないと思い遺書を日本に置いて、大好きな中原中也の詩集と5万円とちょっとした着替えを持って旅に出た17歳。「私は孤独なんだ」と初めてバンコクの地を踏んだ時ふわっと思ったことを今でも覚えている、メンタルではなくフィジカルな面での孤独を知った。

一人旅はここでは詳細に語れない程自分にはバラエティに富んでいた、今でも相棒なモンクレールのサングラスもバンコクのデパートで「これから先困窮してもいい」という思いを抱えながらインスピレーションで購入した。そして私がかつて真っ直ぐにプラトニックに愛した人がパリから「私たちもう終わりにしよう」と国際電話をかけてきてアユタヤの世界遺産を目の前に「今までありがとう、元気でね」と電話口で涙を堪えて笑顔で別れを告げたりと色々なことがあった。国際電話のあった日の夜にバンコクのバイヨークスカイホテルの展望台で美しい夜景を見ながら「傷心旅行になっちゃうなぁ」とボソッと独り言を呟いたのも今では誇らしい思い出のひとつだ。

 

それらの思い出の中でも鮮明に覚えているのは夜のバンコクプラトゥーナム市場に初めて足を踏み入れたこと。人種の坩堝、世界中から集まってきたバックパッカーたちが集い多くの人々で賑わうあの空間に足を踏み入れると今まで抱いた事のない喜怒哀楽のどれにもカテゴライズすることができない感情が込み上げてきた。湿度が高く暑いあの特有の環境に身を置いたにも関わらず鳥肌がたち足が震えた。その中で私は目前の世界を目に焼き付け、目を閉じて大きくゆっくり深呼吸をすることしかできなかった。独特な異国の地の匂いさえもとても素晴らしく新鮮な匂いに感じ目頭が熱くなった。そしてその後市場の小汚い屋台で多国籍の異文化交流を拙い英語で行い「タフなティーンエイジャー」とイギリスからの旅行客に言われた事は今でも誇りだ。

 

 

あれから5年の月日が経ったというのにもあの時の光景と感情を22歳になった今でも生活の断片でふと思い出す、今でもあの時抱いた感情と同じ感情は見つからない。
また一人でリュックを背負い旅に出れば抱けるのだろうか。あれから私は旅を捨てて日常を選んだ、国内で一人旅を細々と続けているが国外には出ていない。しかし、今心の奥で旅に出たいという気持ちが蘇っている。

将来の夢=旅人だった私は何故旅に恋い焦がれていたのだろうか。

私が旅をする理由は何であろうか。

しかし22歳は旅の数だけ旅の理由が存在する事を知っている。

私が今旅をしたいと思う理由は