最後の行く末

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「愛ってなんだと思う?」友人が真面目な顔をして私の目を真っすぐに見つめながら尋ねてきた。食べていたサンドウィッチを珈琲で流し込み「なんで私の聞くの?」と素朴な疑問をぶつける

「私が知ってるだけでも多くの人と付き合ってきたよね?だから何か分かるかなって」
埃の香りが店内に漂う古き良き喫茶店で3限をサボってる時に突然そんなことを聞かれるとは思わなかった。


「それは破綻の連続だからだよ。自分が冷めてしまったり自分の至らなさが露呈され次第に愛想を尽かされ気がついたら、さようなら、とかね。本当は誰か1人と上手くやっていきたいと思ってるんだけれど、どうも上手く行かないんだよね」と友人に正直に打ち明けた。

「いつも同じ事の繰り返しだった」と脳内整理をしながら友人に話す過程で気がついた。
かつて私は自分の足りない所を人で埋めようとし続けた、半熟なゆで卵ではなく生卵のようなことを幾度も経験した。満たされたくてしていた行いは決して自分を満たしてくれる事はなく、虚無感をずっと抱え生かされていた。そして関係が終わった相手を思い出したくなくて自分の中でなかった事にしたことも沢山あった、ちゃんと過去の交際相手だとカウントする人も勿論いた。

しかしそのどちらにも当てはまらない特別な人がいた。


とても美しい人だった、容姿だけではなくあらゆる物で溢れる世界を享受する生き方が美しかった。その美しい人は私に色んなことを教えてくれた、クリムトの絵、演劇、写真、哲学、詩、旅、登山、音楽、映画、英語、神様のこと、自分がどういう人生を歩んできたか。美しい人は写真を撮るのが好きでベッドで寝ている私を撮るのが好きだった、シャッターを切る音で目を覚ますと「何もしてないよ」といった具合に自慢の一眼レフを後ろに隠してすっとぼける表情が私は、とても好きだった。美しい人と私は私の2倍も年上のアパートの屋上で煙草を吸いながら日向ぼっこをするのも夜空を眺めながら缶ビールを2人で飲むのも好きだった。TSUTAYAでDVDを借りて肩を並べて映画を見ること、寝る前に好きな絵本を読み聞かせてくれたこと、それぞれ同じ本を読んで読み終わった後に討論をすること、一人で旅をした国の話を聞くことも私は好きだった、朝に淹れてくれる珈琲を飲む時間も好きだった。「付き合い初めの時から思ってるんだけど君とこういう穏やかな暮らしができたら幸せだなって。君は美しい文章を書くんだから小説家にでもなりなよ、そしたらもし君が売れなくてももっとバリバリ働いて家建てて小説家の妻として支えるよ、先生」とある日酔っぱらって言ってきた美しい人に「君が妻だったらきっと毎日楽しいだろうな」と答えたこともあった、毎日が楽しかった。

 

 


「これから沢山の素敵な人たちに出会えますように。これから困難な事があっても立ち向かう勇気がありますように。これからも真っすぐに美しく輝きながらあなたが生きていけますように」と涙を流しながら願いを呟いた後美しい人は美しい人がとても大切にしていたチベットの神様のネックレスにキスをし私につけてくれた。私は宝物のTegan and SaraのDVDと一人旅に連れて行った中原中也の詩集をあげた。20歳の冬のことで、最後の日のことだった。


「愛って、与える物だとも言えるしもう会えなくなったとしても相手の幸せを最後まで祈る事だとも言えるし正直よく分からない、それは色んな形があるから。けど我々にとってなくてはならないものなのは自明の事だよね」とサンドイッチを食べ終えた私は友人に答えると、

「なるほどね…で、今は恋人いるの?」と友人は食い入るように聞いてきた。

「いないし、今はいい。でも自分が大人になれたと思える日が来たら人生を誰かと共有してみたいなと思えるようになったかな。私の性格上難しいかもしれないけれど」と笑って答えた。

昨日注文したTegan and SaraのDVDは何時頃配達されるんだろうと思いながら。