ジオラマみたい

f:id:iamjin:20160212184724j:image幼少期から母親が「懐かしい」といいながら偶に連れて行ってくれた特別な場所があった、それが飯田橋だった。先日授業終わりに今日は雲がひとつないくらいに晴れているから真っ直ぐ帰りたくなくてふらっと飯田橋へ足を運んだ、ふと足を運びたくなったのは幼少期からの思い出が沢山あるからかそれとも大学から近いからか。そんな飯田橋の地に降り立つと必ず足を運ぶ場所がある、「あなたが生まれる直前まで働いていた会社の昼休み、よくここでお昼ご飯を食べたんだよね」と、母親がよく言っていた場所だ。母親に連れられてしか行ったことがない紀の善。神楽坂の入り口にある日本で唯一のペコちゃん焼きが売っている不二家のお隣に鎮座する古き良き甘味処へ22年後の冬に1人で足を踏み入れたのだった。

 

母親とよく行った土日はいつも多くの人がいて賑わっていたが、その日は平日「1名様ですか?お二階含めお好きな席へどうぞ」と入り口付近で店員さんに声をかけて戴いてから店内に目を配ると昼時だというのに上品なご年配の方々がチラホラといらっしゃるだけだった。いつも2階だったからと躊躇することなく2階へ続く階段を登ると2階席も同様であった。最初テーブル席に座ろうかと思ったが2階の奥にある御座敷をチラッと覗くと誰もいなかったので御座敷に腰を下ろした、靴をわざわざ脱がなきゃいけないというデメリットがあるが御座敷の大きな窓から神楽坂の景色を堪能できるという大きなメリットがあるからだ。御座敷のお座布団に座るといつもと同じように、とり釜飯と杏あんみつを注文。初めて紀の善へ来た時から食べるものは大体決まっている、夏は夏限定のかき氷を戴くのだけれど。「釜飯はお出しするまで2,30分程戴きますがよろしいでしょうか?」という店員さんのいつもの言葉に「構いません。」と応えた後、大きな窓に映し出される神楽坂の景色を眺め、暖かい緑茶と、一緒にいつも出されるブタの形をしたお煎餅を手で割って少しずつ口に入れた。

 

 

日頃の時間に追われた忙しい生活を忘れさせる穏やかな空間でぼんやりと外の世界を眺めながら日々の混沌を考えていた。この世にモモのような聖愚者がいないことは、分かっている、時間泥棒がいないことも。では何故人は時間泥棒がいないのに時間がないと焦ったり時間に縛られて生きているのだろうか。「時間泥棒は自分自身だ」そんなことをぼんやり思った後に「紀の善であんみつ食べられればそれ以上の贅沢は望まない」と思いながら、鞄から本を取り出し、私は読書を始めた。